なぜ、Twitterでつぶやくのか。
リアルの世界で、本音を話せる人が少ないからだ。シンプルに。
正確に言えば、少ないと「思い込んでいる」からだ。
少ないと思い込んでしまうほど、期待できない、期待するのはナンセンスな環境。
これさえも、主観的な思い込み。かもしれない。
己の視座が低いだけかもしれない。
己の眼が腐っているから、世界がモノクロに見えているだけかもしれない。
かもしれない、というか、たぶんそう。正鵠を射た指摘だと思う。パチパチ。
ありがとう。もうひとりの自分よ。
しかし、だよ。
最終的には、自分というレンズを通してでしか、この世界を見ることはできない。
自分は、自分なしには生きられない。当たり前といえば、当たり前だ。
自分の心に客観の矢を刺しているだけだと、やがて死んでしまう。
たまには、主観の針で縫ってあげないと。
そうやって人は生きていく。愚かにも。
自傷と治療。
私はその両方を楽しんでいるし、恐れている。
でも、先端恐怖症の人にとっては、矢も針も同じようなものだろう。
だったら、矢と針の違いを知っている人が、彼らに教えてあげればいい。
相手が不器用なら、自分が縫ってあげればいい。
医学部を卒業した人間だけが、医者じゃない。そう思わないか?
まあ、脳の電源なんかハンマーでぶっ壊して、酸素をスーハー吸ってるほうがはるかに楽だよね。
周りの人間の95%以上の脳の電源はOFFモード。
私の眼には、そう見えてしまう。
そこに、憤りがある。
そこに、冷えた憤りを感じてしまうのが私という人間。
熱くない、冷えた憤りなのだ。
憤りを感じている「私自身」に対しても、私は憤りを感じている。
しかし、そこには何もなかった。
何もないことに気づいてしまった。
だから、寂しいし、辛いのだ。
憤りが消え去った余韻としての、この寂しさを、ギュッと140字に凝縮して、解き放っている。
そういう感覚。
その寂しさでさえ、冷めてしまった瞬間。
その瞬間に、私は人間界という名のツンドラから退きたいと思う。
さあ。私自身、何を言っているか分からない。
分からないからこそ、価値があるんじゃないのか?
分からないことを、分からないままに放っておくことを許せない人間が多い。そういえば。
ネガティブ・ケイパビリティの欠如。
ここにも、憤りがある。
「ボクはこう考えるけど、キミはどう考える?」
ボクはキミの考えを聞きたいだけだ。
分からないなら、分からないでいい。
「分からない。」
その一言がないと、ボクはキミを「人間の形をした粘土の塊」と認識してしまう。
そんなノンバイタルな世界で、ボクは生きたくない。
キミ「も」生きるか、ボクが死ぬか。そのどちらかだ。
ああ。不完全な世界に生まれてきて、本当にボクは幸せものだ。
シホンシュギ。シホンシュギ。
ではまた。
(2021.1.8)
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